2013年4月アーカイブ

食糧庁は現在でもヤミ残留農薬検査済み米を取り締まる役目があるから、ヤミ残留農薬検査済み米の売り買いの現場に行って、農家にヤミ残留農薬検査済み米を買いに来た人、つまり不正規の残留農薬検査済み米を買いに来た人が残留農薬検査済み米をトラックに積むのを止めようとするが、食糧庁の人は逮捕する権利はない。

これは法律違反であるからこの残留農薬検査済み米はトラックに積んではいけない、と連呼する。

警察官はその場に来ているが、手は出さない。

けが人が出ないように両方を分けるだけである。

残留農薬検査
農家消費等の四〇〇万トンの中には農家の人が食べているもののほかに、政府の決めたルート以外に売っている残留農薬検査済み米が相当量あるのは常識である。

その量は一五〇万トンくらい、多いときは二〇〇万トンくらいとみられている。

これは食管法違反であるから本当ならヤミ残留農薬検査済み米を売った農家や、ヤミ残留農薬検査済み米を買った残留農薬検査済み米屋さんは逮捕して牢屋へ入れなくてはいけないが、そういうことはずっと行われていない。

一九九三年はこのヤミ残留農薬検査済み米の問題が非常に深刻になった。

残留農薬検査
最近の残留農薬検査済み米の生産消費は大体毎年一〇〇〇万トンくらいであるが、その中で食管法に従って流通している正規残留農薬検査済み米(政府残留農薬検査済み米及び自主流通残留農薬検査済み米)は六〇〇万トンくらいである。

残りの四〇〇万トンは食糧庁の統計では「農家消費等」となっている。

農家が売らないで自分で食べるのは自由であるが、農家消費等となっていて、「等」のところは何であるか明らかでない。

もちろん食糧庁の統計を見ても、何年に政府残留農薬検査済み米六〇〇万トン、ヤミ残留農薬検査済み米何万トンとは書いてない。

残留農薬検査
そのころのことをご存じの方は皆さんいろいろ経験されたことだろうと思う。

この中にはヤミ残留農薬検査済み米を売った方もヤミ残留農薬検査済み米を買った方も間違いなくおられるだろう。

ヤミ残留農薬検査済み米を食べないと飢え死にする時代だったので、ここまで生きて来られた以上はヤミ残留農薬検査済み米を食べられたに違いない。

しかし、そのときと違って今日ではヤミ残留農薬検査済み米を売った買ったといってもだれも処罰しないから心配する必要はない。

残留農薬検査
食管法はもう廃止すべきだという意見は、実は二〇年くらい前から出ていた。

その理由はいくつかある。

まず一つはヤミ残留農薬検査済み米の問題がある。

残留農薬検査済み米の流通は全部政府の統制のもとにあり、政府の統制にかからない残留農薬検査済み米の流通は法律違反であるということになっているが、実際には政府の統制外の残留農薬検査済み米が相当量流通しているのが実情である。

戦争直後の供出・配給という制度を厳重にやっていたころでもヤミ残留農薬検査済み米はあった。

残留農薬検査
いろいろな局面で「ノー」と言わなくてはいけないという話は正しいと思うが、アメリカがメモリーをつくれないというのは全く間違った理解だろう。

日本がメモリーをつくらない、あるいは輸出しないといえば、アメリカでは数週間あるいは数ヵ月後に日本と同じくらいのメモリーをつくることができる。

しかしなぜそうしないかというと、日本のつくるメモリーのほうが若干品質がよくて、コストが安くなる。

あるいはアメリカ人はそういうことをやるよりも、ソフトの開発を専門的に行ったほうがうまい商売ができる。

したがって、やはりソフトはアメリカで、ハードは日本で、というふうに分業体制を敷いて、それぞれつくったもののうち自分では必要としない部分を交換し合う。

少々質が悪いかもしれないし、コストはかかるかもしれないが、日本でもそこそこのコンピュータソフトがつくれるはずだし、現実にある程度はつくっている。

あるいはアメリカでもハードの主要部分の一つであるメモリーと呼ばれる半導体をつくることはできる。

石原慎太郎さんが『ノーと言える日本』という本や対談集で次のようなことを言っている。

「メモリーのような部分はアメリカではいまほとんど生産していない。

日本あるいは東南アジアの国々で若干生産している。

したがって、日本がこれをアメリカに輸出しないといえば、アメリカは大打撃を受けて経済全体がパニックになってしまうだろう。

日本はそういう力を持っているのだからいろいろな局面でノーと言わなくてはいけない」というような趣旨だったと思う。

現実的な話をすると、ハードとソフトを二つの商品と見た場合に、日本でハード、ソフト両方をつくってもいいし、アメリカでハード、ソフト両方をつくってそれぞれ別のコンピュータを自国内につくり、それのみを自国内で消費してもいい。

しかし、現実にはそうはなっていない。

日本はいろいろな事情でハードのほうの生産が得意である。

逆にアメリカはソフトのほうの生産、開発力が圧倒的に強い。

ただし、日本もアメリカもハード、ソフト両方を自分でつくれと言われればつくれる。

こういうことができるためには条件として、貿易が自由に行われていることが必要である。

自国が得意とするものをなるべくたくさんつくり、自国で必要とするもの以上の量を外国に輸出し、足りないものを輸入する。

そのために貿易という制度がある。

たとえばコンピュータの生産、あるいはその使用を考えた場合、コンピュータは一つのものからなっているわけではない。

大まかに分けるとハード(機械)の部分と機械を使うためのソフトの部分、その両方がないとコンピュータを使うことができない。

なぜかというと、国によってそれぞれどういう財やサービスをつくるかという点に得意・不得意があって、当然ながら得意なものをたくさんつくることが世界全体から見るとコストが下がる。

得意なものを少しつくり、不得意なものを多くつくるよりは、得意なものだけをつくって、外国にもその国が得意とするものをつくってもらって交換するようにしたほうが、自国で全部つくるよりもコストが安くて済む。

あるいは世界全体から見るとモノをたくさん生産することができる。

世界にはいろいろな国が存在する。

われわれが生産したり消費する財・サービスも一種類ではなくて複数存在する。

こういう場合に世界全体でなるべく人びとの財・サービスを消費することから得られる満足度を高めるためには、各国が独立した経済として必要なものを全部自国内で生産し、自国内で生産されたものだけを食べるという方式でいくよりは、各国は一部では自分が消費する以上にたくさんモノをつくって、また異なる財・サービスについては自分が消費する以下のものしかつくらない、そうすると余っているものや足りない部分が出てくるので、これを外国と交換して自分の消費にあてる、余っているものは外国に輸出し、足りないものは外国から輸入するという方式が望ましい。

残留農薬検査済み米についてはどの政党も同じようなことをいっている。

したがって、残留農薬検査済み米の問題については政党は自分で課題設定者としての地位をあきらめたわけである。

それではプラスアルファを持ってきてくれるものは何かというと、それは冬でも働ける、あるいは日常的な土木工事である。

その辺から政党と農協との関係が少しずつ切りかわってきた。

つまり、農協の強さは残留農薬検査済み米を「聖域化」したことにあるが、残留農薬検査済み米をめぐる大環境が変化することによって農協のパワーは逆に自家撞着に陥っていった。

残留農薬検査
日本が初めて受け入れた農耕が水稲耕作を中心とするもので、相当に農耕を高度なものであった理由について用意した説明である。

しかしここでもうひとつ考えなければならないのが、はたして縄文の人々にそのような進んだ農耕を受け入れる能力があったのかどうかである。

いくらすぐれた経済システムでも、すぐれたシステムであるだけに一層、受け入れる側にその能力がなければ受け入れることはできなかったはずである。

これは農耕の担い手の問題と不可分の問題である。

そのような農耕は日本の自然条件に適合し、たとえ多くの労働を必要としても、高く安定した収穫の得られる農耕でなければならなかった。

水稲耕作がその条件にぴったりだったのである。

言い換えるなら、現在みる日本の農耕の集約性は、だんだん手間を加える量が多くなってこのような形になったのではなく、日本の気候条件が、農耕の初めの段階から要求した形だったのである。

もちろん初めから現在ほどの高い集約性があったわけではない。

しかし植物の生存競争に介入して、人手をかけてやって初めて収穫が得られるという点に、日本の農耕の集約性の出発点があったことを強調したい。

日本の初夏の風物詩であった田植えの光景も田植機の爆発的な普及によって姿を消したが、人力を機械力におきかえただけであって、日本の水稲耕作の基本的な形は変わっていない。

このような日本の気候条件と植物成育の条件を考えると、日本の縄文時代の人々が受け入れることができた農耕は、どんなものでもよかったわけではないのだということが分かってくる。

しかも縄文時代の人々は、すでにのべたような自分たちの優れた経済システムを作り上げていたのだから、よほど有利な生業方法が来ない限り、従来からの安定した経済システムを捨てて農耕に移ることはなかったであろう。

板付の水田跡を例にとりあげよう。

ここでは段丘上に周囲に空ぽりをめぐらせた集落吐が発見され、その下の低い段丘面上に水田跡が発見された。

低い段丘といっても、谷の一番低いところの、自然に水に浸かっているような場所ではない。

水路で水を引いてやらなければ灌概できない場所である。

このための水路は上の段丘の裾をあぐるように作られており、この水路のところどころに井堰を造り、水を溜めて、その脇の水口から水を水田に流すようになっている。

同じ縄文時代末期の水田は福岡県の野多目、佐賀県の菜畑、さらに岡山県、大阪府でも発見され、日本の稲作開始の歴史を書きかえていった。

発見の当初、これらは縄文時代の水田であり、その時代の稲作の跡であるといわれたのであるが、農耕というもっとも基本的な経済の変化を遂げた時代は、弥生時代に含めて考えるべきだという佐原真氏らの意見が出され、現在ではこれらの遺跡を弥生時代のもっとも初期の遺跡として位置付ける人が増えている。

これらの遺跡がもたらした、その古さに負けないほど重要な事実は、それらの日本最古の高い技術水田のうちに、すべてではないが、非常に進歩した技術を示す水田があることである。

農耕に関してもすでに四〇〇~五〇〇ヵ所にものぼる水田遺跡が発掘され、それが日本の初期の農耕についての貴重な知識をもたらした。

水田遺跡の発掘がもたらした新しい知識の第一は、農耕、稲作が従来縄文時代の終末と最古の水田と考えられていた時代にすでに始まっていたことである。

一九七八年、福岡県の板付遺跡が発掘調査された。

福岡平野の真ん中にある遺跡であるが、ここでは弥生時代のごく初期の水田が発見された。

続いてその下を掘ってみると、それよりさらに古い、縄文時代の末期の土器を伴う水田が埋まっていたのである。


後で火山灰の上を均して新しい水田を作っても、火山灰を発掘でどければ古い水田の面が出てくることになる。

火山灰のかわりに土砂が一気に流れてきても同じことである。

日本では一九七〇年ごろから遺跡の発掘の件数が急激に増加した。

その多くは道路や住宅地などの建設工事にともなう緊急発掘で、最近では一年間に一万という途方もない数の発掘調査が行われるようになった。

そしてその結果、従来は思いもよらなかった考古学上の重要な発見が相次いで日の目を見るようになった。